★心通った在宅医療を

(1997年10月2日 読売新聞 「いのち見つめて」より)
 滋賀県竜王町の診療所に勤める医師雨森正記さん(37)は、日曜日で休診だった五月十八日の午前中、いつものように末期の肝臓がんの男性患者(82)を往診した。
「痛くないですか」との雨森さんの問いに「全然」と男性。「しんどくないですか」と聞いても「少しも」と首を振った。その日の夜に、男性は息を引き取った。
 竜王町は県南東部にある人口一万三千人の町。診療所は三か所。車で三十分程度いけば大きな病院がある。町の死亡者のうち、在宅死と病院死はほぼ半数という。
 その男性が雨森さんの診療所にやって来たのは昨年の一月。血液と超音波の検査ですぐに肝臓ガンと判明した。すでに手遅れだった。
「肝臓がすごく悪化しています。大きな病院で肝臓への動脈をふさぐ手術を受けた方がいいでしょう。二週間くらいかかると思います」
「しょうがないな」と入院した男性だが、きっかり二週間で退院。再び診療所にやって来て、雨森さんに「病院は嫌やから、先生にずっと診てほしい」と訴えた。
 今春には触れても分かるほど肝臓がはれた。雨森さんは「がんであつても言ってほしくない」という本人の意思を尊重し、厳しい状況とだけ告げていた。痛みはモルヒネでなく鎮痛剤で抑えられた。それでも、男性は死ぬ直前まで、釣りや盆栽の世話をして気ままに暮らしていた。
 雨森さんは「自宅にいると精神的に安定しますから、家族が思うほど本人は痛がらないものです」と言う。
 「患者さんの家へ毎日、往診に行って、何かあれば夜中でも駆けつけ、在宅でみとる。それが当然の医飾の仕事だと思って育ちました」
雨森さんがこの町に赴任して今年で九年目。父は同じ県内で開業する。亡くなった祖父も医師だった。父や祖父と同じように田舎で地域医療に携わりたいと、自治医大に入学した。滋賀県内の病院で、内科、小児科、放射線科の研修を受けた。三科の研修は異例だった。「診療所で働くには、専門を磨くより総合的な知識が重要だ」と思ったからだ。目標は「家庭医」。「病気だけでなく、患者さんの生活・とかかわり、心の通った医療をしたいから」という。
 九十一歳の夫を在宅でみとった妻(89)が、葬式で出棺の際、「私も連れて行って」と取りすがり、気を失ってしまった。雨森さんは駆けつけて精神安定剤を注射、その後、妻の診察時には努めて夫の思い出話を聞き、妻の心がいやされるよう気を配っている。
 大腸がんの夫を看護する五十代の女性は「先生が点滴してくれでいる間だけ私は休めます」とつぶやいた。病院だと、医師は福祉事情を知らなくても済む。しかし、在宅診療だと、患者にエアマットがいるのか、また、介護者に腰痛が出れば、へルパーをどうするのか考えなくてはならない。
 「家族を犠牲にしないで在宅死を実現するには地域の福祉サービスの充実が欠かせません。行政や福祉機関と連携し、家族を支援することも診療所の大切な役割だと思って います」と雨森さん。
 「家で患者さんをみていると死を自然に受け入れることができます。死は患者さんの生活の中に自然に組み込まれていると感じるのです」